tsurezures’s blog

映画、本などの感想を徒然なるままに。

BLUE GIANT

監督:立川譲(2023)

評価:A+

 

【概要】

石塚真一による小学館の「BLUE GIANT」という漫画が原作。

・ジャズサックスバカの17歳、宮本大が、世界一のJAZZサックスプレイヤーを目指し田舎から上京するシーンから物語は始まる。

・上京してすぐ、とあるJAZZ Barで上級者だが同い年の沢辺雪祈(ピアノ)と出会う。初めこそ経験3年の大のことをバカにするものの、音を聴いてそこまでの並大抵ではない努力と才能を感じ、一緒に組むことになる。

・ドラマセクションを探していたところ、大の友人の玉田が興味を持ってくれる。大と沢辺の熱量に惹きつけられるように、玉田も猛練習を重ね上達していく。

・3人のグループの名はJASSとなり、演奏の場を重ねるごとに徐々に知名度も上がっていく。

・紆余曲折ありつつも、3人の最終目標であった10代の間にSo blue(日本トップのJazzクラブという設定)で演奏するという夢が叶うことが決まり、ライブまで残り3日となったとき、ピアニストの沢辺がバイト中に交通事故に巻き込まれる。

・沢辺は一命を取り留めるが右手がボロボロになってしまう。残された二人は前に突き進むしかないと、二人でも演奏を行う決意をする。残された二人ならではの演奏の力強さは果てしなく観客も心動かされる様子が描かれている。アンコールでは雪祈が病院から飛び出し左片手のみで参加する。この時雪祈の口から「このLIVEで最後だな」というようなセリフが飛び出す。

・3人でのステージを終え、大がドイツのミュンヘンに向かうため空港で雪祈へ挨拶の電話をかけたところで話は終わる。

 

【所感】

・So blueの平さんのセリフ「内臓をひっくりかえすくらい自分をさらけ出すのがソロだろ。 君はソロができないのか?」は芸術による表現を的確に表している言葉で、そこの言葉にこそ表現の面白さが詰まっていると感じた。

音楽でも絵画でもダンスでも、どんな芸術も自分の中身の綺麗も汚いも醜いも美しいも全てをさらけだすからこそ個性が出て、"生"を感じられるのではないだろうか。

この頃のJpop批判をしたい訳ではないが、よくも悪くも今の時代の音楽は「聴かれる」ものから「消費される」ものに変わってきているため昔のように生きた音楽、時代が変わっても残り続ける音楽が作られにくくなっているように感じる。一度聞いただけで覚えられるキャッチーさ、歌詞のインパクト、口ずさみやすいテンポの良さ、これらの要素が集まったものがヒットしている印象だ。そして一度ヒットした音楽が流行り続けるのは一瞬。次から次へと新しくてキャッチーな音楽が生み出される。

こんな時代だからこそ、JAZZは生きた音楽として価値があるように思った。元々JAZZを聴いている方ではあるが、改めてこの音楽の熱量と逞しさに魅力を感じた。

・映画の中で何度か雪祈と音楽性についてやり合う場面がある。やるべきは「売れる音楽」か「本当の音楽」か。永遠のジレンマだ。

きっと音楽をやっている人なら誰しもが通る道。映画の中では宮本大の「本当の音楽」が観客の心に伝わり成功するストーリーであったが、実世界では難しさがある。特に今の音楽消費時代。「本当の生きた音楽」は聴く方もそれなりのエネルギーを要する。聴いている中で演奏している人の抱えている心の内面や葛藤、生き様をみようと思うとただぼーっと聴くだけというのは難しい。スマホでもショート動画の方が流行り、長い動画の再生回数が伸びにくい現代で、お金を払いかつ音楽を集中して聴きたいと思う人がどれだけいるだろうか。どうしても「売れてお金になる」≠「本当の音楽」というジレンマがある。せめて我が子には「本当の音楽」が少しでも感じ取れるくらいの集中力と、ものごとを突き詰める力をつけて成長してほしいと思う親です。

 

・「生きる」ということについても考えさせれた。大袈裟に聞こえるかもしれないが、人生を生きる中で一つ一つのことを突き詰めながら丁寧に生きていく人生と、なんとなーくその場に合わせてしのぎながらダラダラと生きていく人生とどっちの方が死ぬ時に悔いないだろうか。それはやはり前者だと思う。(だからといって自分はダラダラしていないかと言ったらそんなことは全くないが…)何か一つのことでも、たくさんのことでも、個数は関係ないと思うが突き詰めてきた人生は、それがたとえ失敗に終わったとしても無難な人生よりは悔いなく終われるのではなかろうか。でも突き詰めることや継続するのは実際のところしんどい。そんなしんどいことを鼓舞してくれ、その先に感じられる豊かさなような物をみせて元気付けてくれる音楽こそJAZZのような気がした。(あくまでも私個人の捉え方です。笑)

・作品として色々考えるテーマを投げかけてくれ、生きる活力をもらえたのでA +にした。原作が漫画であるが故にカメラカットの忙しさがあり少し気になってしまったのがSにはならなかった要因かもしれない。

ロシュフォールの恋人たち(字幕版)

監督:Jacques Demy (1968)

 

評価:A  

 

【概要】

フランスの軍港ロシュフォールが舞台のミュージカル映画。お祭りの季節に合わせてやってきたスタントマン、水兵として働いている青年、昔の恋を忘れられずに出会った街で喫茶店を続ける夫人とその娘たち。皆が本物の愛に憧れ、それを探し求めて生きている。はじめは皆バラバラで同じロシュフォールにいることだけが共通点であったはずなのに、些細なきっかけをもとにそれぞれの赤い糸が少しずつ紡がれていく物語。

 

【所感】

・音楽と踊りはSSS。クラシックとジャズのいいとこどりのような曲調がとてつもなく洒落ていて、今聴いても全く褪せないメロディ。中でもテーマソングは恋や愛の切なさや儚さ、惑わされるような美しさを感じさせる音楽で、なんとも優美。

・1960年代の色々な意味での勢いの良さが滲み出ていた。テーマや音楽も明るく前向きで衣装がカラフルで華やか。女性もミニスカートやボディラインが出るものが多いのが特徴的。

・映画の中で何度か出てきたのが、「戦争狂よ」「世界中戦争ばっかり」と言ったようなセリフ。戦争を経験してきている時代の人たちだからこそ生きているだけでもラッキーで、自ずと前を向けた時代なのかなと思った。愛や恋に走るのも、自然なのかもしれない。現代少子化や晩婚化、未婚率の増加が問題になっているが、おそらく命の危機にさらされるようなことが起こったらこれらの問題は解決に向かう可能性もあるのだろう。結局はお金より本能だなんて、皮肉なもんだ。

・また時間を置いたらみたくなる日が来るかもしれないが、見ないかもしれないのでA。音楽はしばらく聴き続けてしまいそう。

 

ターミナル(字幕版)

監督:スティーヴン・スピルバーグ(2004)

 

評価:A

 

 

【概要】

トムハンクス主演。クラコウジア人としてニューヨークに飛行機で渡ってきたビクター・ナボルスキーだったが、祖国がクーデターで消滅しパスポートが無効となってしまったことでアメリカへの入国を拒否されてしまう。一方帰る母国もないため、いわゆる「法の隙間」に陥り空港のロビーで待つよう指示される。

正直で純粋なナボルスキーは言われるがまま空港で待ち続けることにする。

空港で待ち続ける間に様々なトラブルが巻き起こるが、(中略)ナボルスキーの正直さと純粋さが報われて祖国の戦争が終わった頃には、彼は空港中の職員に愛され、助けられる存在になっていた。そうして亡くなった父の唯一の願いであったニューヨークのとあるジャズSAXプレーヤーのサインを無事にもらえたところで話は終わる。

 

【所感】

・最初から最後まで楽しく、飽きることなく見られる映画。コミカル要素も満点でくすくすと笑いながら見られた。

 

・ナボルスキーのように正直に誠実に生きれば、どんなにピンチの状況でも助けてくれる人が必ず現れるだろうと夢や希望を持たせてくれる内容ではあった。

 

・カメラワークが素敵。さすがスピルバーグ。空港ならでは飛行機を使った光の演出や、監視カメラを使ったコミカル要素などもあり、小技が光っていた。飽きさせない演出。

 

・ストーリーよし、音楽よし、笑よしということでA評価。また見たいかと言われると、忘れた頃に気が向いたらという感じでSには至らず。最後の終わり方でもう一捻りあったら嬉しかったかなぁと欲張ってしまう笑。

 

東京物語

監督:小津 安二郎(1953年)

評価:S

 

【概要】

尾道に住む子ども5人を持つ老夫婦と、巣立った後遠く離れた東京や大阪に住む子どもたちのいる家族について描いた物語。

老夫婦は子どもたちに会いに約半日をかけて東京へ汽車で出かける。一旦は事前に連絡していた長男や長女の家に泊まるが、二人とも多忙な日常に追われ中々お父さんやお母さんと時間をゆっくり作ることが難しい状態であった。

ひとまず次男の奥さん(次男は朝鮮戦争で亡くなっている)に連絡し、一日は次男の奥さんがお父さんお母さんを東京案内してくれる。

ずっと次男の奥さんに頼ることも難しく、悩んだ長男長女は二人で相談し、両親へ熱海旅行を提案しお金を渡す。両親は熱海へ行き一旦は旅館の温泉や海の静けさを楽しんでいたものの、旅館の夜の賭博や宴会の賑わいで寝付くことができず「ここは若い人がくるところだねー、そろそろ帰ろうか。子どもたちみんなにも会えたことだし」と帰ることを早々に決意する。

想定よりかなり早く帰ってきた両親をみて、驚きを隠せない長女。長女も両親が帰ってこないことを見越して予定を入れていたため、宿がない旨を伝える。

悩んだ両親は別々に泊まる場所を探すことにする。母は一度お世話になった次男の奥さんの元へ、父はあてのある知り合いの元へ訪れる。

次男の奥さんは快くお母さんを受け入れ、お家に泊める。お父さんはひさしぶりに再開した友人たちと長年辞めていた酒を交えつつ晩を明かす。泥酔したお父さんは友人の一人を連れたまま警察官に長女の家へと連れ帰られる。

突然うちにこられた長女は戸惑い怒りつつも、二人の寝床を用意してあげる。

これ以上迷惑もかけられないと、翌日の汽車で二人は尾道へ帰ることにするが、お母さんは貴社の途中で体調を少し崩す。体を取り戻し、翌日には尾道につくもののその後すぐ危篤状態との知らせが子どもたちのもとに電報で届く。

危篤の知らせを聞き、子どもたちは尾道に集まるが翌日には亡くなってしまう。

お葬式をあげ、次の日には仕事があるからと長男長女は東京へ帰ってしまうが、次男の奥さんはお父さんと次女のことが気がかりで尾道へ少し残る。

その後次男の奥さんも汽車で帰ることになり、お父さんと次女さんが後に残される。

「どうせあいつが亡くなるなら、もっと優しくしときゃあよかったなぁ。1日がなごぉ感じるわ。」とお父さんがぼやいているところで、お話は終わる。

 

【所感】

・制作から約70年も経過しているのにも関わらず今の時代でも十分に通用する内容の映画であった。

・誰が良いとか悪いとか、どんな親や子であるべきというのを決めつけているような感じやメッセージ性も強くはなく、親子や義理の娘などそれぞれの立場から葛藤や思う所を描いていいた。

・お父さんが久しぶりに再開した友人たちと飲むシーンで「結局子どもなんて自分の思うようにはいかないもんよ、諦めも大事よ」と言ったのは、案外腑に落ちた。子育てをしていると、どうしても「我が子にはこんな子になってほしい。」と色々な夢や理想を持ち必死になる時がある(いつもではない)が、詰まる所子どもも一人の人間でいつかは親の手を離れて自立する日が来るんだと改めて思った。個人的にここでいう諦めは「もうダメだ。諦めるしかない。」じゃなくて、「できることは最大限やりきった。」で終われたら親としてはまだ納得のできる人生になるのかなと。

・お父さんお母さんが東京へ行った時も、お母さんが亡くなった後も、皮肉にも一番面倒を見てくれたのは次男の奥さんであった。見る人がみたら、実の子は冷たいじゃないか、と感じるのかもしれない。実際お父さんも終わりの方のシーンで、お母さんの形見の時計を義理の娘に渡し「お母さんはあんたと過ごした日が一番楽しかった」と言ってた。小津安二郎はこれらのシーンを通じて何を伝えたかったのだろうか。

私は正直長男長女、義理の娘、どちらの気持ちもわかる気がすると思った。長男長女にしたらいつか来る日であろうと心の準備をしていた部分もあり、ある意味で母の死は人生のストーリーの中で描いていた出来事の一つだったのかなと思った。一方義理の娘は、自分の夫を戦争で失っており、失ってから8年その悲しみを埋め合わせる方法を見つけられずにいたような状況であった。夫のことを忘れたくないと思う一方で時間の経過とともに人間であるが故、忘れていってしまう自分がいて、その罪悪感に苛まれいわば罪滅ぼしのような気持ちもあり義理の両親を大事にしていたところもあったのではなかろうか。

映画に出てくる義理の娘も実の子どもたちも、表現の仕方や捉え方は違えどお父さんお母さんのことを大事に思う気持ちに変わりはないと私は思う。ただ、親の立場から見た時、やっぱり元気に生きている間に少しでも一緒に時間を過ごせたらそれだけでも嬉しいものなのかなとも思った。

一度でも子どもたちを送り出した親の立場にならないと、わからないであろう心情を美しくかつ現実的に分かりやすく描いてくれている作品であると思う。

 

・子どもが成長し、巣立った頃にまたもう一度みたい。